西から三陸へ

d-chiba2013-10-30

10月26日朝。
西は大阪・神戸から来た歌うたい4人と豪雨の東京で合流、ワゴン車で台風と共に北上。目指すは岩手県三陸・大船渡。

西の歌うたい達は東日本大震災後、大阪十三の路上に月一回集まってチャリティライブを続けていた。集まった募金を被災地に直接届けたい相談を受けた俺が、大船渡に連れて行く事になった。
最初は「楽器を買って仮設住宅の子供に届けたい」と。しかし仮設の現状を聞くと迷惑になりかねない。現金を被災者個に配るのも問題ある。生活消耗品例えばトイレットペーパーじゃ配る側も貰う側も実感は弱いだろう。

善意を押し付けじゃなく結実させるのは難しい。今回は特に被災者の為だけでなく、大阪で募金した皆の気持ちに応える責任も。結局現金を大船渡市社会福祉協議会に贈呈することにした。

大船渡手前の陸前高田を通った。突然瓦礫の町になり、2年半以上経った今もダンプが行き交う広大な空き地になった程度だ。夕暮れに奇跡の一本松が荒涼と立っていた。

27日朝。
台風一過で快晴。事務局長の奥山さん、こんなに復興が遅れている理由を沢山話してくれた。地盤沈下、まず土地かさ上げをしなきゃ沿岸に住居どころか何も作れない。地元に住みたい人の為に、山を削って居住地域を作らなくてはならない。それが三陸だ、阪神淡路と大きな違いの一つ。
そして新家が建ち仮設から出て行く金の有る人と無い人の格差、孤独、アルコール依存・・・心のケア仕事。他所の人に話すのは辛いだろう人間の現実、今回間で動いてくれた協議会の栗村君が横で涙していた。そして西の歌うたいも。

募金を贈呈、地元新聞に載るそうだ。募金した人も喜ぶだろう、それは善意が結実した以上に、少しでも関西と東北が繋がった証だから。絆だの、日本は一つだの言うは易いが俺は言わない。この小さな繋がりの為にどれだけ苦労したか・・・

社会福祉協議会で力を入れている一つ。瓦礫から出てきて洗浄分類されて、ゆかりの人を待つ大量の写真を見せてもらった。写真一枚でも人によっては宝なのだ。未洗浄分は劣化が進行しないように冷凍保存している。今回のお金はその経費に使われる。

その後、大船渡のサンマラーメンで昼食、碁石海岸の断崖リアス絶景を観て西チーム大はしゃぎ。

夜は街コン(街主催ねるとん?参加者160人!)を盛り上げるべく、会場の仮設屋台村・野外ステージで『愛し合おうぜコンサート』を主催。
俺は急遽「サンマとサバの恋の唄」を作り歌い、東京から石巻出身の鈴木知文も駆けつけ、出演者6人(&地元エアギター)、気温10度の強風の中で凄まじいライブになった。

打ち上げも屋台村→ホテル大広間→ホテル事務所へと・・・深い夜、深い酒。

28日朝早々に帰路へ。西チームは今日中に大阪や神戸に帰るのだ。俺はやや朦朧と運転しながら感慨に耽った。
結局、岩手の為より被災者の為より西の連中の為より、全部自分の為に動いたんだな。自分の中に岩手があり、震災の傷があり、西の歌うたいも住んでいるから。それがまずまず成功したという事。美談でも正義でもない。人生の一片として。

夕方に東京で別れた。彼らは更に同じ位の距離を帰る。大阪から、アイネシャンゼリゼ、高松洋子、岡部謙吾(イヌガヨ)。神戸からニシムラプリン。
そして俺と大船渡を繋いだハカイダー山本、屋台村のみんな。また遊ぼうぜ!