闘北ツアー終了 後編

d-chiba2011-06-10

●5/27 岩手盛岡→宮古→大船渡

朝起きたら、70過ぎの母がせっせとオニギリを作りまくっていた。
「大船渡の人に食べてもらってくれ」と。
生まれも育ちも岩手の母、山田町の友人家族が波にさらわれた。
言葉に出さないが思うところはあるだろう。
ただ、被災地で俺が聞いて来た話は
「オニギリやカップ麺は食べ飽きた」と。
状況は被災地によって違うだろうが、こういう情報があまり外に聞こえてこないのは問題だ。
でも思いは少しは伝わるかな?と、オニギリを引き受け。

盛岡の実家から東へ90kmの被災地、宮古へ向けて車を出した。
何度か海水浴や海釣りに遊びに行った地だ。最近では3年前。
宮古市に入った。コンビニ寄って昼飯買って、さぁ海沿いへ!と出発してすぐ・・・
タイヤがパンク。錆びた釘がガッツリ刺さっていた。
国道沿いで、ガレキ道というわけでは無かったが、こういうものが落ちていやすいんだろう。
人生二度目のタイヤ交換。かれこれ2時間ロス。
素人が交換したタイヤが外れたりしないか?、翌日まで怖かった〜

結局宮古は立ち入り禁止ヶ所もあり時間ロスもあり、2ヶ所の展望台から全体を見た程度で出発。
宮古は大きく起伏ある町で、港付近は集中的に崩壊しているが、周りは無事な感じだった。
かつて釣りに行った蛸の浜堤防が崩壊していた。

海沿いの国道を南下。
途中の山田町はかなりヤバかった、町の奥までほぼ崩壊。津波対策モデル地区として、中学時代に学校行事で「明治の三陸津波」体験者の話を聞きに行った場所。類を見ない高さ10mのダブル防潮堤、が見あたらなかった。
さぞ悔しい思いの人も多いだろう。

一昨日見た大槌町と釜石を通った。
一人で見る改めて強烈。

遅くなり夕方に大船渡に着。
魔之巣氏と会い。この日もまた宴会(笑)
一昨日にはまだだった水道が復旧、トイレが普通に使える!
水洗ってスゲェなぁ〜
復興に参加しないでパチンコ屋に行っている、地元の若い奴らへの嘆きを聞いた。確かに周辺国道沿いのパチンコ屋は盛況だった・・・



●5/28 大船渡→福島県福島市

今日こそ被災地活動!と、朝9時には起き。
9時半にはボランティアチーム20人が来た。
年齢はけっこう高め(30代以降)な気がしたが、皆さん元気で明るい!
チームは、魔之巣氏宅前の道の下水道の泥出し。
水道が復旧したので下水を通さねばならないのだ。
泥出しは臭い汚い重い。しかも小雨の中。
でも
「この道の先に外人ボランティアチーム、金髪のめんけぇ娘が居るってぞ!」
と意気上がる。さすが20人揃うと速い!
俺はその脇で、ひたすら砂利を運んで穴を埋める活動。
俺は昼過ぎまでしか居れないので、その分頑張ったが今日の目標を終われなかった。
目標なかばで残念無念だが、大船渡を後にした。
雨の中、一路福島へ。


福島市も雨だった。
放射能雨なら禿げるなぁ、と思いつつも傘無しで町を歩いた。でも気にしている人はあまり居ない感じ、ギャルも子供も。
本日のライブは福島駅近く飲み屋街のライブバー・MATCH BOX。
この店を以前紹介してくれた佐藤孝仁君と2マンライブ。
彼は福島市で桃の農家をやっている。
おそるおそる「大丈夫なの?」と聞いたら、
「桃は地の養分が実に届くまでしばらくかかるから、今作っているのは大丈夫。とにかく作って、(放射能)測定値次第だけどね」
と力強く答えてくれた。
マスターやお客さんとも沢山話した。
「避難しろって簡単に言うけど、そう簡単に他所の土地に住めないさ」
という声が多かった。それもそうだ。

原発が問題な事や実体が不透明な放射能はもちろんだが、まず風評被害が怖い。
測定値0でも福島産の全ては苦難だろう。
東電を利用していた人は率先して買ったらどうかな。
知らなかった・騙されてた、と自分の無知を棚に上げて、福島ヤバイ!って左へ倣えで騒ぐのはカッコ悪いぜ。
俺は福島の桃美味しいから食うし、福島に楽しい奴らが居るからまた行くし。東電まだ使ってるし。
ギリギリまで、
コロコロ変わる数値にも政治にも評論家にも左右はされない。
また行くぜ〜!

あ、ライブは。佐藤君が日本風土的ブルースでキメてくれて。
俺は1時間もらい、じっくり演らせてもらった。
佐藤君が仲間を沢山呼んでくれた。
あと5/20いわきライブに御客で居たらしい2人が来てくれた。
色紙を持って!サイン考えなきゃ(笑)

そして車中泊
カーナビに明日の行き先入れて、安心してそのまま眠ってしまい・・・




●5/29 福島市茨城県日立→東京

車中寝坊して10時に起きたら、車がウンともスンとも言わない!
電源入れっぱなしでバッテリーが上がったようだ。
困ったあげく初体験、JAFに連絡した。非会員はやたら高い。
こんな時会員の013が居てくれたら(苦笑)

ようやく昼に出発。今日は茨城日立で血刃了ライブ。
高速の東北道磐越道をブッ飛ばし(道が時々、地震で段差出来ていた。けっこう怖いぞ)、
東京から今日電車で来る血刃了の相方を茨城の駅で拾って、リハにギリギリ間に合うかな、と・・・
相方は電車乗換えを間違ったらしい(苦笑)
1時間遅れで店入り。

7ヶ月ぶりの日立・小川屋は、地震の爪跡と修繕があったが、海近くでも津波被害が無かっただけ、まぁ良かった。

競演の高萩BACK STREET(写真)、素直に元気でロックで歌で茨城でメンバー全員ツナギで盛り上がりで、嬉しくなった。
ボーカルのトシはいかにも車好きそうだが、車流された話をジョーク混じりにMCで語り、
地震津波原発だあっけど、茨城の俺らは俺らで楽しんでやってくしかねぇべよ」
とサラッと。ここで確かに生きているっていう貫禄だった。

福島でも思ったこの感覚、東京では無いよなぁ。
東京の人間は過半数が地方から集まった人。当然俺も。
楽しみを与える商売が密集しているし、自発的に楽しみを作っていこうという意識は薄いのでは。楽しみ=商売か自己満足、そんな図式。あとはサークルか。
東京の俺ら、と漠然とはとても言えない状況。

俺が岩手から東京に来た理由はいくつかあるが、
居続けているのはたぶん、自分の責任で独り(自由)になれるから。
でも今回の震災で、当然有ると思っていた場所や人が突然消える恐怖を知った。
しばらく、俺の自由なんて小さい紙屑みたいに思えてならなかった。

福島の俺ら、茨城の俺ら、と言える意識に憧れはある。
俺は「東京の俺ら」とは言えない。やや突き放して「東京の人間」と言ってしまう。
まして「岩手の俺ら」なんて言える立場に無い。
俺ら、と言えない俺に出来る事を考えた。
我武者羅に掴んでクシャクシャに丸まった紙屑みたいな“自由”を、
ゆっくり広げ直す事だろう。
そして言いたい事やりたい事やれる事を整理し遂行する、動く事だろう。
主体性。あらためて覚悟が座ってきた。
そして地域限定出来なくても、「俺ら」と言ってもいい愛すべきバカ野郎達と、日本のあちこちで出会って来た事を、もっと大切にしよう。


なんかツアーのまとめ話的になったが。
もう一回書く予定。

あ、日立小川屋での血刃了ライブ。毎度の爆裂でした(笑)
ドラムセットをいつものように下手前に出してもらったんだが、小川屋さんは小川屋経営で食っているわけでは無い(どう見ても・失礼!)し、ホント手間かけちゃって感謝の極み。
小川屋さんやトシとバカ話でまた飲みたかったが、翌朝に急用が入り飲まずに東京に帰ることに。
土砂降りの中、高速を2時間。
運転中ナチュラル・トリップしてた(笑)


〜たぶん続く〜